ここに立つここより他に無き場所の空に枝を張り鳥遊ばせて

寺尾登志子『奥津磐座』(2016年、ながらみ書房)

植物は動物のように移動できない。動物と植物の差異は沢山あるが、最大の差異はここだと思う。人間が移植しない限り、植物は基本的に一旦根を降ろしたところで一生を過ごす。地上に落ちた種はそこで根を出し、その根を地下へ伸ばしてゆく。一方で、種は双葉を出し、根が吸収したり、葉が光合成で作った養分などを使って幹を空へ伸ばしてゆく。やがて幹には枝が出来て、枝は更に葉を繁らす。そこが日当たりのよい場所であっても、谷間の傾斜地であったりして、移動することはない。

一方で、樹は少しでも多く太陽の光を浴びれるように思う存分枝を繁らせることができる。その繁らせ方は自然の摂理であろうが、同時に、樹の裁量とも思える。そして、そこへ鳥がやってくる。鳥は葉や枝などについた虫や木の実が目的で来るのだろうが、人間から見れば、樹を楽しませているようにも見える。

樹はまさに「ここより他に無き場所」に立っている。それが独立樹であれば、孤独で寂しいであろう。しかし、そこで存分に枝を張ることができるし、やがて鳥がやってきて楽しませてくれる。それは決して孤独ではない。

表現していることはあくまで樹のことであるが、ここには深い箴言のようなものが感じられる。この作品を、どんなに不幸な境遇にあっても喜びを見いだせ、というような教訓と取ってしまえばつまらなくなるが、作者は、鳥の来訪を喜んでいる樹の心に深く共鳴しているようだ。樹の喜びを自分の喜びのように感じているのだ。清新な抒情であるが、深い思索性も感じられ、同時に対象の本質もあやまたず捉えている。初句切れの作品であるが、「ここ」のリフレインが心地よい。

待ち人は来ず失せ物は見つからずあと一箇月だけ五十七歳

年の瀬の水の飛沫に尾羽濡らし石を叩けるセキレイも吾も

霜枯れの庭に射す日は明るくて千両、万両くれなゐ結ぶ