青駒のゆげ立つる冬さいはひのきはみとはつね夭逝ならむ

吉田隼人『忘却のための試論』(2015年、書肆侃侃房)

 

雪の歌の多い歌集です。そのなかから一首を……と、よく見たらこの歌に雪とは書かれていませんでした。

このあとに出てくる雪の歌と同じ文脈内ということもありますが、まずは藤原定家の〈駒とめて袖うちはらふ蔭もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ〉を連想し、雪の歌と思ったようです。

20代の人による21世紀の作品であることに、驚きます。次はそれぞれ、別の章から。

 

ばかの国ばかだけ住みて雪降れど雪と知らねば雪のおとだけ

かみは苦を ほとけは悲をばたまふとぞしればあをかる みなづきの ゆき

 

文体は使い分けられていても、「ばか」を嘆き現世に「苦」「悲」を見る感受性を呼び起こすのが雪という概念である点は、一致しています。吉田さんは福島県の生まれ育ちとあるので、降雪はじっさい身体に親しい現象でしょう。

しかし一貫して、福島らしさは避けられています。歌集の構成において2011年という年は特化されているものの、震災や地縁についての語りは目立ちません。

故郷という名の“世間”を疎む気持ちと夭逝願望とは、やはり一体です。現実を拒むことは人生に背くことだと考える“世間”へのプロテスト、別の人生のあり方を、掲出歌は示しているようです。

別の人生とは、歌人であれば、たとえば文体や引用によって先人と、歴史とつながること。定家の〈駒とめて〉にも本歌がありました。

手法に賭けることは、実人生とは異なる人生を拓くことにもなりえます。