わたしがいないあいだに落ちしはなびらを丸テーブルの上より拾う

中津昌子『むかれなかった林檎のために』(2015年、砂子屋書房)

「あとがき」に、作者はこの歌集の期間、病気をして入院したとある。「わたしがいないあいだ」とは、単に買い物などに出かけていた間とも取れるが、入院中ということかも知れない。帰宅して、留守中に丸テーブルの上に散っていた花びらをいとおしみつつ拾っているのである。

ここには作者の時間と花びらの時間と、二つの時間がパラレルに流れているような印象を受ける。そして、それらの二つの時間は、パラレルに流れながら、時として交差しているようだ。作者はその交差の瞬間を心より大切にしているのだ。SFの世界に「パラレルワールド」という概念がある。ある世界から分岐して、それに並行して存在する別の世界を指す。異次元とは違い、我々の宇宙と同一の次元を持つとされている。この一首は、作者の時間と花びらに時間とがパラレルワールドであるうように思えてならない。自分の時間とは別の時間がこの世界のどこかで流れていると想像することはとても楽しく、そして少しばかり怖い。

初句七音であるが、全体にひらがなを多用して柔らかい印象を醸し出している。更に、「丸テーブル」が一層柔らかさを印象付ける。

なお、作者は、この歌集から再び現代仮名遣い(新かな遣い)に戻ることとしたと書いている。掲出歌の結句ははもし歴史的仮名遣い(旧かな遣い)で表記するなら「拾ふ」となる。仮名遣いの選択に歌人は結構悩んでいる。新かなは学校教育で学ぶ仮名遣いなので、通常は慣れている仮名遣いであり、一部の特例を除き、基本的に発音通りなので簡便である。しかし、時として不合理な面もある。一方、旧かなは、塔別に勉強しなければならないという点もあるが、その柔らかい印象を好む歌人も多い。掲出歌に関しては、やはり旧かなよりは新かなが相応しいように思える。その理由を明確に説明できないのだが、作者の抒情が現代的なのかも知れないと思う。

もくれんは丸い大きな葉を落とし自転車にうすく浮かび出る錆

階段はいきなり終わりむらさきに暮れ落ちようとする空に出る

ぼうぼうと八つ手の花が咲いているかたわらにあるみじかき石段