折口春洋『鵠が音』(1953年、角川書店)
逆編年体の『鵠[たづ]が音[ね]』より冒頭の章、昭和19年の作です。
石川県羽咋出身の国文学者、藤井春洋は長らく東京で師・釈迢空(折口信夫)の家に起居していましたが、軍の召集を受けて金沢の聯隊にいた年、彼を養子にむかえるために訪れた師のことを述べています。
春洋は翌年3月に硫黄島で戦死したとされますが、詳細はわからず、迢空は子の命日を米軍が島に上陸した2月17日としました。享年38。
次も同章から。
春畠に菜の葉荒びしほど過ぎて、おもかげに 師をさびしまむとす
人のうへのはかなしごとを しみ/″\と喜び聞きて、師はおはすなり
以上3首の自筆の歌軸を昨秋、石川近代文学館で拝見しました。
素直な筆づかいで、万葉仮名まじりでも読めました。隣の迢空のは華麗で読めない……歌風と筆跡って一致するんだなあ。
このときの展示は、近代詩をふんだんに引用した清家雪子さんのファンタジー漫画『月に吠えらんねえ』(講談社)原画とのコラボレーションで、藤井家のご遺族がこの漫画に感じるところあって歌軸の初公開が成ったという学芸員さんのお話を聞き、涙ぐむ来館者も。
『月に吠えらんねえ』では春洋が島から送った手紙(中公文庫版『鵠が音』収載)のなかの歌が引かれ、四季もなく敵を待つだけの場所でうたうことの難しさ、抒情と戦争の相容れなさを登場人物たちが語るさまに、胸刺されます。
未完成な歌とはいえ、迢空らの手で編まれた『鵠が音』同様、かかわった人びとを思いやる内容に変わりはありません。そのやさしさは、迢空の歌が友人や教え子に示す深い情とは異なり、どこか冷めてもいます。
掲出歌の「さびしき」は、当時のことだけでなく、自分の死がもたらす師の孤独に向けた、未来への慰めのことばではなかったでしょうか。
「くるしき」「かなしき」ではないことの冷徹を思います。