出かけんと忙しく化粧するわれの手元見つめる眼差しのあり

青沼ひろ子『石笛』(2013年、本阿弥書店)

作者は山梨県に在住する「みぎわ」会員で、題16回歌壇賞受賞者でもある。歌集のタイトルは「いしぶえ」ではなく「いわぶね」と読む。

状況はよく判る。外出前に手早く化粧している作者の手元を家族の誰かが見ている。そして作者はその眼差しを意識している。その家族は誰であろうか。夫、姑、飼い犬……。誰とも取れるだろう。夫だとすれば、”やれやれ、また短歌の会か…。俺の夕食はどうなっていっるのだろう”と思っているだろう。姑だったら、”また出かけるのかしら。嫁がこう外出ばかりしていたのでは、近所の手前、決まりが悪いわ…”。犬だったら”え、今日の僕の散歩はどうなるの!?”か。

「あとがき」によればこれは小学生だった娘の由。そうだとわかると、「手元」が肯ける。小学生の女の子にとっては、母親の外出も気になるが、多分、それ以上に大人の女性が化粧をする手順に興味があるのかも知れない。明らかに夫のような男性の視線ではない。しかも、作者の外出を必ずしも苦々しく思ってはいない。決して厳しい冷ややかな視線でもない。どちらかと言えば、興味深々なのであろう。

また、「忙しく」という言葉が作者の日常の忙しさを現わしている。家族から苦情が出ないように、きちんと家事を済ませて、時計を見ながら手早く化粧をするのである。時間的余裕のある人の表現ではないだろう。女性歌人は女性なりの困難さの中で短歌を作っているのだ。

短歌はたったこれだけの短い詩型ではあるが、「忙しく」「手元」のようなほんの一語、二語が大きな情報をもたらす。そのため歌人は小さな言葉にとことん拘る。助詞、助動詞の一つに何日も拘ったりする。また、歌会でも、一見なんでもなく無造作に滑り込まされている言葉のニュアンスを読み取ろうと何時間も喧々諤々議論する。それが短歌の面白さなのだ。

産卵をするものの如くふくらみし鞄枕辺に子は置いて寝る

子を生みし以前それ以降 オーブンにチーズスフレが膨らんでいる

妹と結婚したいという人があらわれたときふーんと思いき

この家にとり残される父親と母親のためピアノは踏ん張る