土器のかたち焼き固めゆく火ぢからは骸(むくろ)のかたち消してしまへり

米田靖子『泥つき地蔵』(2015年、本阿弥書店)

冬に手が冷たい時に手に息を吹きかけて温める。また、味噌汁が熱い時にも息を吹きかけて冷ます。小さい時はそれを不思議に思っていた。この一首はそのことをふと思い出せる。土器を作る時は粘土を捏ねて型作り、焼いて焼成する。一方で、人が亡くなると現在の日本では火葬にしてその形を消してしまう。つまり物を作る時にも、物を消す時にも、どちらの時も火を使う。冷たい手にも熱い味噌汁にも息を吹きかけるように。

それにしても火は不思議なものである。世界最古の一神教は、古代ペルシャで発生したゾロアスター教であるとされている。光(善)の象徴として火を尊ぶ。信者は火に向かって礼拝をするために「拝火教」とも言われている。現在でも、イランやインドで一定の信者がいる。因みに、ゾロアスター教では死者は火葬しないで、鳥葬か風葬にする。他の世界でも火やは概ね神聖なものとされている。オリンピックでも聖火が掲げられる。

この一首の「火ぢから」という言葉が強い印象を与える。漢字で書けば「火力」である。この漢字は通常は「かりょく」と読まれて、発電方式などを言う時に使われるが、「ひぢから」と「かりょく」では意味が全く違う。「ひぢから」は火が本来持っている神聖な霊力を意味し、「かりょく」となるとその物理的な応用によるエネルギーを意味する。作者は「火ぢから」という言葉で、その神聖な霊力に思いを寄せているのだ。

因みに、この作品は義弟の死を歌っているようで、前に次のような作品が置かれている。

しっかりと「東に行く」と言ひてのち義弟逝きたり東には墓

くぢら幕張ればあの世が近づきて死者のたびじたく草鞋を履かす

快適なホテルのやうな火葬場にけむりの見えず魂(たま)遠ざかる