中島行矢『モーリタニアの蛸』(2015年、本阿弥書店)
歌集名として『モーリタニアの蛸』というのはやや風変わりで、目をひかれます。そもそも、モーリタニアってどこ?
アフリカ西部の国であること、かつて日本人がこの地にタコ壺漁を伝授したことは、青木昭子さんの跋文に書かれています。ウェブで見ると、複合検索のキーワードとして「モーリタニア たこ」が上位にきます。
タコを食べないモーリタニア人と、魚介類が大好きな日本人とをつなぐタコ産業のことを思うかぎり景気のよい話ですが、短歌になじんでいるとどうしても北原白秋『雲母集』の
蛸壺に蛸ひとつづつひそまりてころがる畑の太葱[ふとねぎ]の花
寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚[たこ]逃げてゆく真昼の光
あたりを連想しますよね。
こんなにタコの味覚になじんでいながら、短歌では「あはれ」や「かなしゑ」という感慨が自然に出てきてしまうのは、タコの奇妙な形状や生態もさることながら、やはり壺のイメージと切っても切れないからでしょう。
こうした事象を明白な日本人論につなげると、詩歌としてのうるおいがなくなりがちですが、中島さんの歌にはその手前で引き返すやさしさがあります。
どくだみは不意に匂へり出来ないとなぜ出来ないと言へなかつたか
目的をただ一にして集まれるたとへばコンサートといへども恐る
「なぜ出来ないと言へなかつたか」は私的な後悔の念のようでいて、どこか敗戦前の、あるいは今後の日本人のことのようでもあります。