雨蛙刺されしのちの脚いたく長しと思ひぬ冬庭の鉢

百々登美子『雲の根』(2008年)

鵙(モズ)はスズメ目モズ科の鳥。
百舌とも書くのは、他の鳥の鳴き声を真似て、様様な鳴き方をするところからという。
雀よりひとまわり大きく、鈎状になったつよい嘴とするどい爪をもつ。
大型昆虫類、蛙、蜥蜴のほか、小鳥や鼠を捕ることもある。
秋になると縄張りを誇示してキィーキィーと甲高い声で鳴くのを、百舌の高鳴きという。
葉を落としはじめた木木にひびく、空を引き裂くようなその声は、いかにも晩秋の風情がある。
留鳥だが、俳句では秋の季語。

一首には、鵙のはやにえが詠われている。
はやにえ、は速贄で、もともとは初物の献上品のこと。
鵙は捕らえた獲物を木の枝につきさしておく習性がある。
冬の食料にするためとも言われるが、じっさいはそのまま食べられないことが多く、はっきりした理由はわかっていない。
昔はよくみられた。さいきんあまり見ないのは、蛙などの小動物がへったせいか。
それとも、庭木の持ち主が気味悪がって処分するのだろうか。

冬の庭。鉢の木にはやにえの蛙をみつけた。
骨は縮まないので、ひからびた蛙の脚はみょうに細長くみえる。
鵙という語も、はやにえという語も使わず、蛙に焦点をしぼりこんだ一首からは、冬空にそりかえった、そのあわれな様子がいかにもさむざむと感じられる。

生き物の不思議な生態と、ちいさな命の果てのあわれな姿。一首の感動の中心がそこにあることは間違いない。
しかし、冬空のように澄んだ一首の、いたく長し、という感懐からは、もうすこし暗い余韻も感じられるように思う。
それは死後という時間への思いだ。
ひとは死ぬとその姿を消すが、言葉や記憶は、生きているひとたちのあいだに遺る。
死んだあともしばらくの間は、尊敬されたり軽んじられたり、愛されたり憎まれたりする。
そんな死後の時間を、一首の冬庭の景にかさねるのは、読者の深読みにすぎるだろうか。

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