瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』(2016年、書肆侃侃房)
穂村弘さんに〈菜のはなのお花畑にうつ伏せに「わたし、あくま」と悪魔は云った〉という歌がありました(『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館)。
この幼げな悪魔がもっと言葉を覚えたら、瀬戸さんの歌のようなことを言いだすかも。
瀬戸さんの私家版歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』で〈おいおい星の性別なんか知るかよ地獄は必ず必ず燃えるごみ〉のような歌を読んで、この人はなにをそんなに怒っているのかと思ったものですが、とはいえ笑顔や妥協ばかり(とくに女性に)求められる社会で怒りがアートの源泉になるのは、納得できます。
この歌集では怒りは悪意に転じて、「絶望を斡旋する」など、それこそ悪魔修業中の様相。
愉悦すら悲しみに変えるぼくたちはいまだ若くて至高の半分
少女の語る「絶望」と少年の語る「至高」はどちらも究極の状態ですから、たぶん表裏一体なのでしょう。しかし少女は絶望を直接には知らず、少年は至高を完全には知らない。
知らないことの悲しみを感じつづけるのが若さである、ということを思います。感じられなくなったときから人は老いることも。
でも、次の歌は小学生男子みたいな口調ながら、心地よい老成というか充足があるようです。創作にたずさわる人なら実のところ年齢性別にかかわらず体感しているはずの「この感じ」、軽い昂揚をうたって、愉快です。
蜜蜂と花の道ゆくこの感じひとびとのちんぽかるくたつこの感じ