ひとつずつボタンをはめる静けさは白亜の街のさすらいに似て

山下 泉『海の額と夜の頬』

(2012年、砂子屋書房)

 

 

一昨日、山下泉さんのお名前が出たので歌集をひらいてみました。

見た目、比喩の少ない歌集です。この歌はたまたま「~に似て」という直喩に着地していますが、喩の意図は読み取れません。寓意や、判じ絵的な表現に関心がないことがうかがわれます。

関心は、感覚に向かっています。ここでは「ひとつずつボタンをはめる」という所作と、ユトリロの絵に入り込むような「白亜の街のさすらい」という空想とをむすぶ第三句の「静けさ」だけが、読者に手渡されます。

静けさといっても聴覚だけでない、時間感覚や身体感覚、視覚もまじえたシネステジア(共感覚)の言語化が主眼です。次の「機の音見ゆ」も同様に。

 

脳髄のさみしいところにねむりたり中将姫の機の音見ゆ

風やみて優しき洞となりし夜、草生[くさふ]にふたつ眼を置けり

遠雷に瞼まぶたのひらめきて白藤の棚くぐりゆきたり

 

「眼を置けり」は闇と同化しようとする行為。その次は藤棚いちめんに花びらならぬ瞼が垂れているような描写で、雷と白色の響きあいもシャープです。

これらの歌の幻想性に比べると、掲出歌は日常性からさほど離れず淡白ですが、ところでひとつ、発見がありました。

ボタンをすべて一度にはめることはできない。

当然です。でも、なぜ一度にはめられないか、なぜ人は同時に複数の場所に存在できないか、など考えませんか?

歌に込められた意図があるとすればそれは、ある考えにとどまること、ではないでしょうか。