米川千嘉子『夏空の櫂』(1988年、砂子屋書房)
※『米川千嘉子歌集』(砂子屋書房)に全篇収載
毎年、近所の梅の花が咲くと
お軽、小春、お初、お半と呼んでみる ちひさいちひさい顔の白梅[しらうめ]
(米川千嘉子『滝と流星』短歌研究社)
を思ってしみじみするのですが、そのころ店舗のディスプレイはそろそろ桜の造花に変わっているので、冒頭の歌も思い出すことになります。
自分が短歌を始めたころに買った『現代短歌の鑑賞101』(新書館)で、編著者の小高賢さんがこんな鑑賞文を付されていて、印象に残りました。
「ことさらのことあげをやんわり批判する。いうまでもなく彼女自身は矜持をもっている。しかし一方で、表立った主張などつまらないと心底思っている」
矜持、もっているのかなあ、という疑問が今もあります。むしろ、ありがた迷惑に感じているのでは。私は私、それ以上でも以下でもない。
〈女は大地〉という“ことあげ”にプライドを求めるのはつまらない、と。
そうした意見自体は、たしかに“ことあげ”されません。若い女性の率直な声と、さくら湯の透明感との響きあいに魅かれるばかりです。
この歌の前半へはおりおり言及がありますが、後半の景について述べた文をあまり見ない気がします。初めて読んで以来、さくら湯という名の銭湯か温泉で午後、もの思いをしながらお湯に浸かる女性をずっと想像していました。
桜の花の塩漬けにお湯を注いだ飲みもののことだと気づいても、なお入浴のイメージから離れられないのは、個人の裸の声がここにある、と思ってしまうせいでしょうか。