いもうとの戒名はやく憶えおり水に死す「遊水善童女」五つ

池本一郎『萱鳴り』(2013年、砂子屋書房)

 この作者の作品は「上手い」というよりも「味わいがある」と言った方がいいと思う。この作品も、特別なレトリックは無く、素っ気ないくらいである。むしろ、どことなくごつごつとした印象を受ける。それでいて、深く心に沁みてくる。

 状況としては、作者の妹がまだ五歳の時に事故で水死したようだ。その子に親が(実際には菩提寺の住職かも知れないが)付けた戒名が「遊水善童女」なのである。そして、まだ幼い兄である作者はその戒名ををすぐに覚えてしまったと言う。一般的な大人の戒名に比べれば短いが、まだ幼なかった作者にとっては難しかったに違いないが。

 戒名の「遊水」という語句が切ない。溺れ死んだことを、水に遊んだと言っているのである。せめてもの親の思いやりであろう。苦しんだとは思いたくなく、水と遊びながら彼岸へ行ったと思いたいのである。古来日本には「言霊」という考えがある。言葉には不思議な霊威があり、話した言葉通りの事象がもたらされると信じられていた。「遊水」という戒名を付けたことで、親たちの心の中では、妹は本当に遊びながら彼岸に行ったのであろう。

 当時まだ十歳前後であったであろう作者は、親が唱えている妹の戒名を覚えてしまった。多分、漢字を知ったのはずっと後のことで、その時は音だけで覚えていたのではないだろうか。大きくなって、漢字を知り、戒名の意味を知った。また、作者自身が親になって、初めて昔の親に気持ちが理解出来たに違いない。ひょっとしたら、その時の親の気持ちを思いやることができなかった自分の幼さを悲しんだのかも知れない。

   一基だけ動き出さない風車あり回る風車にとりかこまれて

   希は稀なり まれの意なれば希望とはそうだったかと詠む一首あり

   食いかけのセンベイが消ゆペンがない座敷わらしが住みついたらし