子は天与の者にてあるか秋の陽は贋金(にせがね)のごと黄菊を照らす

米川千嘉子『一夏』(1993年)

妊娠中の一首である。
子は天与の者、というと箴言のようだが、にてあるか、という疑問形が一首に微妙なニュアンスを与えている。
天与のものなのだなあ、という気づきの気持ちに、アイロニー、反語のニュアンスがまじっている。
反語には断定の強調の効果がある、と国語の教科書にはあるが、じっさいはこんなふうにアンビヴァレントな感情をふくんでいることが多い。

子供がほしいと思っても、なかなか授からないこともある。
ほしくないタイミングでできてしまうことだってある。
ともに子をなす相手との出会いもふくめて、運命からの授かりものという感動が、主人公にもきっとあった。

でも、と主人公は一方で思う。
妊娠していることが知られると、周囲の自分を見る目が変わる。
もちろん、みんな祝福してくれるのだが、ひとりのにんげん、ひとりの女性としてではなく、妊婦として、母親として自分が見られていることにとまどいを感じるのだ。
周囲の期待や、じぶんのからだの変化に、じぶんの気持ちが追いつかない感じ。

生命をはぐくむエネルギーの源である太陽。
それがまるで贋金のようだ、というのは新鮮な表現で、そこに子を得たよろこびのなかのかすかな違和感が反映している。
しかし、その陽に照らされた目の前の黄菊はけっして贋物ではない。
ちいさくてやわらかな花びらにむけるまなざしには、じぶんのなかに芽生えたちいさな命をまぶしく感じる気持ちが、まぎれもなくあらわれている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です