同じ目線に語らむとして屈みたり幼子もかがみわたしを見上ぐ

山本登志枝『水の音する』(2016年、ながらみ書房)

 大人が小さな子供に話しかける時は屈むといいと言われる。立ったまま話しかけると子供を見下ろすことになり、子供に威圧感を与えるからである。また、そのように理屈で思わなくても、親愛の気持ちから自ずと屈んで子供と同じ目線となってしまう。大人にとても、いつもより数十センチ低い視線で周囲を見るということは、見慣れた光景が、また別の様相を帯びて新鮮に見える。そのようなことから短歌が生まれるようなこともある。

 しかし、この作品では、作者が子供に話しかけようとして屈んだ時に、子供も同じように屈んでしまった。子供にとってはあまり慣れない状況だったのだろうか。とっさに屈んでしまったのだと思う。同居している孫ではないのであろう。子供と同じ目線で話しかけようとしていた作者も戸惑ってしまったに違いない。

 これが幼子が屈まずに、作者と同じ目線で楽しそうに話をしたということであれば、めでたしめでたしであろうが、それでは予定調和的であり、短歌としてはあまり面白くない。思いがけない展開をするのが人生というものであり、短歌はそのような、日常の生活の中の些細なズレのようなものを掬い上げる時に、精彩を放つという面を持つ。

   雪しまき視界たちまちにくらみしがまた冠雪の木々が見えくる

   それぞれに思ふ人ゐる子らのため夫と額づく出雲の神に

   缶や小石につつかりながら流れゐる冬近き日の町川の水