他人のみ楽しそうに見ゆるとき花降りきたる心のなかに

中村幸一『あふれるひかり』

(2016年、北冬舎)

 

いまちょうど4月初旬なので、「花」は桜のイメージでとらえています。しかし、もっと概念的な用法なのかもしれません。

構造的には石川啄木の〈友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ〉とオーヴァーラップする歌ですが、心情はかなり異なりそうです。

啄木の「友」も他人といえば他人。ただ、これはパブリックな存在で、対比的に「花」がプライヴェートな親愛や慰撫をあらわしていると読むことができます。孤独感は、案外ありません。

いっぽう掲出歌の「他人」は、自己の孤独をあぶりだすための背景。第2句の字足らずも、漠然としたさびしさを感じさせます。「花」は自己を超えるなにか、天上から「降りきたる」恩寵のメタファーのようです。

あるいは歌集名の「ひかり」と同義でしょうか。

 

スーフィーの円舞のなかにひかり落ち広がりてゆくまぼろしを見る

うねる文字おどりてあはれアラビアの文字のちからに心さわぎぬ

 

作者は言語学者であり、前歌集にはもっとブッキッシュな印象がありましたが、この歌集では異国の信仰や呪術性についての知識が、作者自身の夢にすんなり同化している感じがします。

 

流れゆく涙とともに味わえる汁なす桃の光りてあはれ

井の頭 秋の日射して手をくぐりももに至れりわかもののもも

 

斎藤茂吉ふうの「桃」や塚本邦雄ふうの「わかもののもも」は、夢というには生々しく悩ましいのですが、やはり一種の恩寵としてうたわれていると思われます。