緑道を黙って歩く父だった四月の霧をほおひげに受け

中沢直人『極圏の光』

(2009年、本阿弥書店)

 

緑道、黙って歩く父、霧、ほおひげ。ディテールごとに雰囲気のある歌です。

春の場合、俳句では「霞」を使いますが、ここでは「四月」と秋の季語「霧」を組み合わせたことで、肌寒さだけでなく心の冷えのようなものも伝わります。

「父である」ではなく「父だった」という時制の繊細さ、思い出であることが、静かな痛みを呼ぶのでしょう。

ほおひげに「受け」という動詞を続けるのは、やや変わった用法に思えます。てのひらに水を受けるとでも言うように、湿気をたっぷり含んだ印象。ひげ自体に触覚はないのですが、なにか皮膚の延長のようななまなましさがあります。

 

くすぐってほしそうな顎ばかりなり夏の果樹園めく講義室

 

作者は憲法学者であり、大学で教鞭をとっています。「くすぐってほしそうな顎」もなんとなく、うっすらとしたひげを思わせ、多くの男子学生の存在が示されると同時に、彼らの息づかい、若さが読み手の眼前にもひろがります。

冒頭の「父」も、老人という感じはせず、どこか若さをのこしているのは、みずみずしいようなほおひげの描写によるものではと思います。幼いころの記憶というより、あるていど父と対等な会話ができるようになってからの記憶でしょう。

知性と肉体性のひびきあいが、歌にゆたかな官能をもたらしています。次の強い感情をともなう歌も、なじり合う声で触れ合っているかのようです。

 

なじり合って乾拭きをせり二人とも力の抜き方がわからない