五月来る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり

塚本邦雄『緑色研究』(1965年)

※歌集では正字使用

 

5月がくるとこの歌を思い出す人も多い、かどうかわかりませんが、初句の助詞の省略がもたらす切迫感、ゴガツという音のつよさが印象的なのはたしかです。

「来る」を「硝子」にかかる連体形と読むと散文的になり、結句までがひとつづきの物語に見えます。俳句の季語「五月来る」をここに見るなら、初句切れのあざやかな韻文性がきわだちます。

短歌や俳句をつくる人には後者の読み方のほうが興味深いはずですが、重層性をきわめようとする作者の志向を考えると、散文性と韻文性をかけ合わせる試みを見いだすべきでしょう。

ある歳時記に〈五月来るガラスの馬のたてがみに/保坂知加子〉という句がありました。五月という季節とガラスというアイテムは相性がよいようです。春のおぼろ(も季語ですね)から梅雨へいたるまでのあいだの空気や光がたたえる透明感、と説明できるでしょうか。

塚本さんの「硝子」はおそらく窓ガラス。歌集『装飾楽句[カデンツア]』(1956年)巻頭歌、

 

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

 

と同じく、窓をへだてた光景をうたっていると推測されます。

実際の窓ではなく、心の窓。それでも〈五月祭〉は日本の社会、現実のメーデーを反映していますが、『緑色研究』は聖書のエピソードに多く取材した歌集であり、掲出歌はヘロデ王の命による幼児虐殺の幻影という解釈が一般的です。

にしても、〈みな〉以下のかな書きはどこか美しいメルヘンのようです。