憶えたことすべてわすれて想像でうろつくかもねいつか上海

我妻俊樹『足の踏み場、象の墓場』

(2016年、「率」10号誌上歌集)

@tankaritsu

 

一読して、好きな歌や映画や芝居の記憶が一度におとずれました。マレーネ・ディートリッヒ主演の『上海特急』、吉田日出子が歌う「ウエルカム上海」「上海リル」(『上海バンスキング』劇中歌)、短歌なら〈上海は銀の音かな響かせて春になつたら落ちあふ手筈〉(紀野恵『水晶宮綺譚』)、エトセトラ。

上海はここでは、我妻さんにもその読者にも、夢の土地なのだと思います。じっさいに行ったことがあるかどうかは、関係なく。いわゆる歌枕です。

思いつくままに話しかけるような〈~かもね〉までの適当さ、結句〈いつか上海〉の歌謡曲的な俗っぽさの裏に、人生を重く語らないという意志が見えます。

 

バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい

 

先日、猿が火を起こすことを覚えたゆえの悲劇という小説を読んだばかりなので、バスを待つ猿の絵がどうしても浮かびます。

 

墓石を小窓のように磨く手が墓のうちなる手とさぐり合う

ぶつかると大きな音がするほどの蝶 曇ってて真昼だからね

 

それぞれ、尾崎放哉の句〈墓のうらに廻る〉、富澤赤黄男の句〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉を想起。このようにイメージのデジャヴに満ちた歌集ですが、同時に、それらの情報を〈すべてわすれて想像で〉読み直すことをも、うながされます。

従来の短歌のコードからはずれがちな我妻作品をクリアに読みとく論文(石川美南・宇都宮敦・堂園昌彦の各氏による)も付され、意義ある誌上歌集となっています。