俺の書いた歌集をTに送ろうか風船につけて飛ばす気分で

千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』(2015年、書肆侃侃房)

  この歌集には「T」なる人が何度か登場する。

      二通目をもらって思い出す 文化祭をめぐって喧嘩したT

      Tの字は震えに震え「真剣に歌を詠めよ」と説教ばかり

      Tに出す手紙「ご批評感謝します」きっとこの「ご」はきっと、痛い

 歌集を読むと、Tとは作者の高校時代の友人のようだ。歌人としての作者の名前を雑誌か新聞などで見て、懐かしくなって手紙を寄越したらしい。多分、短歌は作っていないが、高校時代の友人が現在は歌人になっていると知って、関心を持ったのではないだろうか。

 歌人は歌集を出すと、普通は著名な歌人や歌壇関係団体などに贈呈し、身近な結社の仲間などにも寄贈する。更に短歌を作っていない親戚・知人・友人などにも送る時もある。歌人には一応、歌集を読んでもらえるという前提で送るが(実際には、送られた方も、数が多い場合は、なかなか全部読み切れないのも実情かもしれないが)、一方、短歌を作っていない人に送る時は少し心もとない感じがする。それは”どうぞ歌集を読んで下さい。”というよりも、”ご無沙汰していますが私は最近こんなことをしています。もし時間がありましたらパラパラとでも結構ですから飛ばし読みしてみて下さい。”というような近況報告に近いものかも知れない。

 作者はその気持ちを「風船につけて飛ばす気分で」と表現した。これは妙に納得させるものがある。風船に手紙などを付けて飛ばしたとしても、それが遠いどこかの誰かに読まれて、返事が来るという確率は極めて少ないだろう。しかし、確率は少なくてもゼロではない。短歌を作っていない人に歌集を送るのはそんなものだという。数は少なくても誰かが読んでくれるかも知れない。ひょととしたら、反応もゼロではないかも知れない。確かにそうだろうと思う。

 しかし、実際にはTは作者の歌集を真面目に読んで、率直な感想を手紙に書いてきた。それも「真剣に詠めよ」などと辛辣な内容の。歌人同士の外交辞令でないだけに真剣さがある。作者も返事を出す。”痛い「ご」”を付けて。ここに確かな友情がある。Tが歌人ではないとすれば、歌人同士の付き合いとはまた別の種類の清潔な友情なのだ。1968年生まれの作者であるが、教員として高校生を相手にしているためであろうか、文体も感覚も若々しい。