原色の傘を差す子よ おまへとはまだ混じるべき色もたぬ生

高木佳子『青雨記』(平成24年、いりの舎)

 原色とは、それらを混合することであらゆる種類の色を生み出すことができる。即ち、あらゆる色の元である。例えば、テレビのモニターの場合は赤、緑、青が、カラー印刷の場合はシアン、マゼンタ、イエローの三原色が使われる。これらの三色を組み合わせることで様々な色を生み出すことができる。そして、原色そのものははいずれも鮮やかな色彩であり、人間の視覚に強く訴えてくる。 子供の傘も鮮やかな原色、特に黄色が多い。原色の方が遠くから近づいてくる自動車からも目立つからである。一部分が透明になっているものも多い。いずれも、交通事故から子供たちを守る配慮である。

 作者は傘を差している子供を見ながら、その傘の原色に強い感動を受けている。それが鮮やかであるということだけでなく、その色(多分、黄色)が混じりけのない色であるということに感動を受けたのである。その色はまだ世の中のことを何も知らない子供そのものの色なのだ。しかし、子供もやがては成長して社会の様々な仕組みを知っていく。今は家庭と、せいぜい親戚や近所の人しか知らない子供も、学校に上がると親以外の大人も知り、自分とは違う沢山の個性とも触れ合う。その中で、様々な人格と人格の交流を経験していく。幸福な出会いも多いだろうが、場合によっては不幸な出会いもあるかも知れない。しかし、そのような様々な出会いと別れを繰り返し子供は成長し、他の誰でもないその人の独自の人格を形成してゆく。ちょうど、原色が混ざり合うことで様々な色彩が生み出されていくように。しかし今、作者の目の前にいる子供は、その差している傘の色のように、まだ「混じるべき色」を持たない原色そのものの存在なのだ。「おまへ」という乱暴な呼びかけに、反って深い慈愛の気持ちが表れている。旧仮名表記も柔らかい印象を与える。

   海を見にゆかないのですか、ゆふぐれを搬び了へたる貨車がさう言う

   無音なるテレビのなかに跳躍の棒高跳びの選手うらがへり

   橋はいまたれかの脊梁 指をもてなぞるごとくに人ら行き交ふ