葛原妙子『原牛』(1960年)
※『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房)では正字使用
いま、あちこちでアジサイの花が満開です。『万葉集』にすでに見られる花で、中西進編『万葉集事典』(講談社文庫)には「八重大輪であでやかに美しい」「花色が変化して、移り気にたとえられもする」などと説明されています。
すると派手で目立つ花と呼んでもよいのでしょうが、なぜかまず思い出すのはこんな、ほの暗い歌。
森駆けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし/寺山修司『空には本』
内側に何かを隠すかのようなアジサイの花と、人に言えない鬱屈や恥じらいを秘めた思春期のイメージは順接していて、「くらし」とはいえ訳のわからなさはありません。
ところが葛原妙子の上の歌には、外光のあかるさゆえにかえって花の外観を見うしない、その球の内部だけを透視するかのような倒錯、ものの見えなさがあります。
不思議というか、うっすら不気味なのは、〈白き嬰児〉の姿ゆえでしょう。白は産着の色なのか、裸体なのか。後者なら、標本めいてもいます。同じ連作中には
紫陽花のむらがる窓に重なり大き地球儀の球は冷えゐつ
止血鉗子光れる棚の硝子戸にあぢさゐの花の薄き輪郭
など医師の妻ならではの写生と見える歌もありますが、〈むらがる〉という動詞ひとつとっても、花びらが羽虫に化けるような恐怖感があります。
葛原妙子の短歌はときに、思想家ジュリア・クリステヴァの提唱した「アブジェクシオン(おぞましいもの)」という概念で解釈できそうに思えてなりません。