こぼされた砂糖の最後のひとつぶのかなしいひかり降りしきる ガザ

岩尾淳子『眠らない島』(2012年、ながらみ書房)

 一筋縄ではいかない歌集である。多くの作品は日本語としての文脈を形成していない。いきおい読者は欠落している言葉を自分で補って読まざるを得ない。その結果、十人の読者に十通りの読みが生じる。またそのどれもが作者の思いと一致していないかも知れない。そのなかでこの一首は比較的わかりやすいと思うのだが、それでも作者の言いたいこととは違っているかもしれないという不安は拭いきれない。それは仕方がないだろうし、短歌とはそんなものだとも思う。

 キッチンで、或いは喫茶店のテーブルの上で、砂糖を零すことはまままあることである。しかし、角砂糖ならともかく、普通の砂糖の場合(「普通の砂糖」というのも変な言い方だとは思う。そもそも砂状の糖だから「砂糖」と言うのだろう)、「最後のひとつぶ」というのは理論的には確かに存在するのだ、どの「ひとつぶ」が最後かと認識することは困難である。それを認識するには砂糖の「ひとつぶ」は余りにも小さすぎる。しかし、それは理論的には確かに存在する。そしてそれがグラニュー糖だったりすれば、美しい光を帯びているだろう。作者はそれをイメージして、その「ひかり」を悲しいと感じた。確かに存在しながら明確に認識されることのない一瞬の美しい光、それを悲しいと感じる気持ちは十分に理解できる。

 しかし、この一首では結句に来て、一字空けて「ガザ」に繋がっている。「ガザ」はパレスチナ南東部、シナイ半島北東部に位置して地中海に面する長さ45km、幅6~10kmほどの細長い地帯であり「ガザ回廊」という言い方もある。聖書時代から知られている港町であるが、現在は、ヨルダン川西岸と共に、「パレスチナ暫定自治区」を形成している。しかし、パレスチナ難民の恒久的地位を決定する自治交渉の進まぬまま、ガザはイスラム原理主義組織である「ハマス」が実質的に支配する地域となっており、イスラエルに向けてのガザからのロケット弾攻撃と、その報復としてのガザに対するイスラエルの軍事活動が今も継続している。追わば、現在の地球上の一番悲惨な地域の一つである。

 この一首は「こぼされた砂糖の最後のひとつぶのかなしいひかり」と「かなしいひかり振りしきる ガザ」とに分解されるであろう。「かなしいひかり」が両方に架かっている。作者は今、「こぼされた砂糖の最後のひかり」を眺めながら(或いはそれを思い浮かべながら)、ガザに振りしきる悲しい光、即ち、イスラエルによるハマスへの報復のために振り零されている無数の爆弾を思い浮かべている。言い換えれば、この一首の中で「こぼされた砂糖の最後のひとつぶ」は「かなしいひかり」を導き出すための序詞のように使われていることに気がつく。古典和歌のレトリックを巧みに使いながら、目の前の砂糖の光から、遠い西の果ての悲劇に思いを馳せているのである。

      ひかりから生まれることばを聞いている河口にひらく風のくちびる

      あれは明日発つ鳥だろう 背をむけて異境の夕陽をついばんでいる

      問いかけはひとつのひかり弧を描いて一羽は橋を越えようとする