棚の本を読みて箪笥の服を着て足るべし残生の心と体

木畑紀子『冬暁』(2013年、柊書房)

 最近「断捨離」とか「終活」という言葉が流行っているようで、短歌作品でもよく見るようになった。昔と違って、日本人が長い「老後」を送らざるを得なくなっていることが背景にあるのだろう。

 この一首の作者も自分の残生を見据えている。あと何年生きるのか判らないが、本棚にはまだ読んでいない本が沢山ある。昔読んで感動した本もまだ本棚に残してある。これからはそれらを読んで(読み直して)生きていきたい。もう新しい本を買う必要はない。話題になる新刊書も出版されるかも知れないが、もう十分に生ききた自分には今更必要がないと思っている。

 箪笥に中には洋服和服が沢山入っている。幸い体型も昔とそれほど大きく変わっていない。箪笥に中の服はまだまだ着られる。昔は自分には地味だと思っていた服もこれからはきっと似合うであろう。デパートへ行けばお洒落なデザイン、新しい素材の洋服も売り出されていて目を引くが、もう自分には箪笥の中にある服だけで充分である。

 作者の心も体ももう新しい物を欲しない。それは一見、諦観に満ちた消極的な生き方のように思えるかも知れないが、そうではないと思う。作者は、残りの人生が大切だからこそ、最大限に充実した日々を送りたいと思っているに違いない。容量の限られている心だから、新しいものをぎゅうぎゅう押し詰めるより、若い日に心の糧とした思想をもう一度耕し、そこに豊かな感情の樹々を育てたいのだ、体型が定まった今は若い日に着た服も着られる。若い日に好みの服を着て味わったあの幸福感にまた浸れるのだ。

 新刊を買わない、新作の服を買わない。それは地球環境に優しいということだけではなく、作者の心を再度耕し、豊かで幸福な残生を送る条件なのだと思う。人生の充実は何も新しものを追及することにだけあるのではない。心にも体にも容量と言うのもがあれば、これまでに獲得した物を深化させることが充実した人生なのかも知れない。特に、老いの坂を歩み始めている世代にとっては。残された生を最大限に充実させて有意義に生きようとする気力に満ちた積極的な生き方なのだと思う。

      声変はりしてのちはるか子に過ぎしをとこの時間われにわからず

      おのが生まつたうしたる蟬ならむころんと路上に落ちて傷なし

      断念を人は一生(ひとよ)にいくつせむ百枝(ももえ)伐られて樹は無言なり