昔話の途中で寝入りし子の側で思う「めでたしめでたし」の先

松村由利子『薄荷色の朝に』

(1998年、短歌研究社)

 

知的な批評眼の効いた歌に見えます。王子様と結ばれたり、悪者を退治したりでハッピーエンドを迎える昔話に対して、実際の人生ではその後に離婚や仲間割れも起こりうるのだという大人の視点があります。

その後と書きましたが、この歌は〈先〉という語で終わることに留意すべきでしょう。後、ではなく。

子どもはお話の結末を聞く前に寝てしまいましたし、お話を読み聞かせていた自分の生活もまだ続く。まだすべてを知ってはいない、これから何があるかわからないという宙ぶらりんな不安がただよいます。

ものごとを後から検証する理性とは別に、〈先〉のひとことによってかすかな惑い、ためいきめいた空気が生まれるところが、この歌のポイントです。

 

物語なべてふた親揃いおり戸惑いながら絵本を選ぶ

親ひとり子ひとりの姿ほかになき動物園は陽光に満つ

 

物語の常識(近年は変化しているようですが)への違和感を述べつつも、とまどいやさびしさが先立つのは、若さゆえともいえます。一生のうち、ある時期にだけうたえる歌。

 

メラニーも登美子も嫌い柔らかきこの草決して根からは抜けず

 

そういえば、『風と共に去りぬ』はまったく「めでたしめでたし」な物語ではありませんでした。その主人公スカーレットに対比されるメラニー、あるいは与謝野晶子に対比される山川登美子。

彼女らの、運命に従順なイメージを嫌いと言い切る強さもまた、若さゆえと思われます。現在の視点では、どうでしょうか。