iPhone谷間に挟めばパイフォーン着信音に胸ときめいて

木下古栗「胸ときめいて」

「ユリイカ」2016年8月号掲載、青土社)

 

『ルパン三世』の峰不二子的な女性の胸の谷間にスマートフォンを挟んだら……というお色気(死語?)ジョークですが、掲載誌の特集が「あたらしい短歌、ここにあります」ということで、現在発売中ですので紹介を兼ねて。

歌人だけでなくミュージシャンや漫画家など、異なる分野で言葉をあつかう表現者も短歌連作を寄せています。

アヴァンギャルドな小説で知られる作家・木下さんの短歌、最初の2首は

 

馬小屋や糞の臭いにむせ返る一方ここはクーラーの効いた部屋

iPhone谷間に挟めばパイフォーン着信音に胸ときめいて

 

とあり、一首目は初句の〈や〉が格助詞か終助詞か不明だし後半の字余りも無造作で、短歌教室なら朱が入るところ。しかし考えました。短歌を“教える”ときは“定型に整える”ことを心がけますが、整えることは表現にとって善なのか?

ところが二首目はiPhone・パイフォーン・着信音、と脚韻も踏んでいるし結句はいわゆる「て止め」で、短歌らしくなっています。

ここで、作者の短編「Tシャツ」(講談社刊『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』所収)から若干引用してみましょう。

 

「まち子がゲノムを解読する。まち子がとろみをつけたがる。まち子が一本取られてる。(中略)まち子が脾臓を買いたたく。まち子が腎臓売り捌く。まち子が……」

 

ふつうの文がしだいに八五音のリズムになり、そのために補助動詞や助詞が略されてゆきます(「取られてる」「腎臓売り捌く」の部分)。短歌でも、同じことが起きている?

言語感覚のよい人なら、短歌はすぐに“らしく”つくれるようになってしまう。そのことへの自覚と批判がある一連にも見えました。

 

なお特集はその多くを評論・エッセイが占め、以前この「日々のクオリア」でも言及した岡井隆さん、鳥居さん、清家雪子さんの興味深いインタビューもあって、近年の短歌周辺の動向を多角的にとらえた内容でした。