残酷な童話は語り尽くしたと足腰伸ばすあたしの老婆

高柳蕗子『あたしごっこ』

(1994年、沖積舎)

 

一昨日にお名前の出た高柳蕗子さんの全歌集もひらいてみました。こちらはきわめて人工的、言語パズル的な作風に見えます。しかし知力だけで構築しているわけではなく、悪夢の海に身を投じるような捨て身感があります。

初版の『あたしごっこ』は100ページもない軽装ですが、「献辞ごっこ」「あたしごっこ」「あいうえおごっこ」「あとがきごっこ」の4パートがそれぞれ特定のルールにもとづいて構成され、思いのほか稠密で厳格です。

 

風に吹きなぶられながら犬抱いて吸わせるあたしの酸っぱいおっぱい

沖を泳ぐ父を見てから皮一枚下でときどきあたしは鮫

また役にたつ日来るまでトランプに戻すあたしの髭の兄たち

 

このように「あたしごっこ」の章は、〈あたし〉という語の使用と体言止めがルール。読者としては〈沖を泳ぐ父〉に作者の父・高柳重信さんの代表句〈船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな〉を連想しますが、歌のなかでは父も犬もトランプも〈あたし〉との関係において抽象されています。

では〈あたし〉とは何?

わたし、よりも女性ジェンダー寄りの一人称を連呼することで無数の〈あたし〉を生む。女性である自分を指さしつつ、その自分を叩き割るかのように。固定した人物像で語られたくない、固定した関係で生きたくないという叫びのように。

冒頭の〈足腰伸ばす〉は、そんな奮闘から身をとく仕草。〈老婆〉は若さを誇らない状態。老婆像はここで、もっともリラックスした形態なのでしょう。