犬を洗ひ枇杷を洗ひて一日[ひとひ]過ぎゆふぐれに子の指を拭へり

木下こう『体温と雨』

(2014年、砂子屋書房)

 

この人よく何か洗ってるなあ、というのが歌集読後の第一印象でした。

 

夢の手もうつつの指もかなしけれ白ひといろの花瓶を洗ふ

うろくづをみづに洗へばしんとたつ藻のごとき香はわが裡のもの

指先を硬いブラシで洗ひつつ月の出などを思ふ九月は

 

後の2首は同じ章にあって、魚を処理したので、のちほど指先を念入りに洗っているかとも読めます(うろくづ=鱗)。

指先は人体にとって外界との接触点ですから、指についたにおいはしばらく、自分の体のものとしても知覚されることになります。

思えば家事のなかで「洗う」行為が占めるウエイトは大きく、雑多な存在に触れるたび、対象とつながる感覚が一瞬よぎることもあるでしょう。

犬を洗えば犬とつながる感覚、枇杷を洗えば枇杷とつながる感覚。

考えすぎでしょうか。でも、子どもは幼いうちであれば、かつて自分の分身であった感覚がまだ残っているはずです。子どもの濡れた指を(あるいは、濡れたタオル等で)拭うという優しい動作のさなか、自分が“身二つ”になるまでの日々の思い出が胸をかすめたかもしれません。

水を媒介として知覚された身体性が、エロス=生の欲動を伝えてきます。

 

まづ水を飲むところからはじめるの 樹のやうにまつすぐに飲みたい

 

入院し、病が癒えはじめたころの歌。

すなおなうたいぶりですが、水を飲むことは水を内臓に触れさせることであると考えるとき、なまなましいエロスがまさに〈まつすぐに〉立ちあがってきます。