第五演習室へ提げてゆく『中世の秋』 あきらめてきたもの

大森静佳『てのひらを燃やす』(平成25年、角川書店)

 『中世の秋』はオランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ(1872~1945)の著作である。彼は14・15世紀のフランスとネーデルランドに関する実証的調査を行い、それに独自の史的想像力を加えて、この時代のこの地域に一つの文化的終焉を感じ取った。それがヨーロッパ世界における中世的世界の終末の予兆、即ち「中世の秋」なのである。その後に「近代」が始まったのだ。因みに、ホイジンガはライデン大学の教授であったが、ナチス・ドイツのオランダ占領によりその職を追われた。『中世の秋』は日本でもかつての大学生が教養として競って読んだものだったが、現代の大学生には、西洋史を専攻する者以外にはあまり読まれていないのであろうと思う。

 この作者の場合もおそらく大学の演習のテキストとして読んでいたのではないだろうか。テキストを持ってその演習が行われる教室へ向かっているのである。そこまでは叙述であるが、『中世の秋』という少し寂し気な書名が読者に深い印象を与える。それはたまたま演習でこのテキストが使われてたということだけだったのかも知れないが、敢えてそのことを歌にしたということは、作者の心の中にこの書名に反応した何かがあったのだろう。多分、内容よりの書名そのものに反応した何かが。

 「あきらめていたもの」とは何だろうか。『中世の秋』という書名と関連付けて考えてもいいのだろうが、それとは全く関連ないものと思ってもいいだろう。とにかく作者には何か「あきらめていたもの」があったのだ。恋愛、学問、文学、資格、等々なのかも知れないが、取り合えずここではそれは何でもいいだろう。読者の方も、それぞれが自分自身の「あきらめてきたもの」を想像すればいい。『中世の秋』と「あきらめていたもの」、時間も空間も次元も全く違う二つの物が作者の、そして読者の内部で鋭く交差する。

 韻律性の優れた作品ではない。どちらかと言えば、ゴツゴツしたリズムである。そのぎごちなさと必ずしも明瞭に説明できない内容の混沌さ、それらが相まって、うら若い女性の心理のガラス細工のような繊細さが感じられる。

       辻褄を合わせるように葉は落ちてわたしばかりが雨を気にする

       われの生まれる前にひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき

       奪うには近くて 耳に細い雨 奪われるには遠すぎたこと