ひとつづつ透きゆく卵パックには阿古屋貝のかなしみが溜まる

春野りりん『ここからが空』

(2015年、本阿弥書店)

 

初句・第二句の表現に省略があり、〈ひとつ〉は卵ひとつ分のスペースと解釈しました。プラスティック製のパックから卵を取りだすたびにそこが透明になるという認識、ありそうでなかったのでは。

その認識だけで一首が成立しそうですが(「~卵パックかな」と切れば俳句に?)、さらに阿古屋貝(真珠貝)への連想にいたるところが短歌的。

卵の白さと卵パックの輝きが、高貴なイメージに変容します。

 

はるばると会津の山をくだりきて子はわれの手に水晶を載す

宝石箱のなかのくらやみ息づけり子の乳歯二十粒を蔵ひて

樫の実がみな黄水晶[シトリン]であつたなら寂しさにひとはほろびるだらう

 

本日の引用歌はすべて「宝石箱」という題の章にあり、テーマ詠と思われます。〈寂しさにひとはほろびる〉などちょっと奇妙なフレーズですが、宝石という物質を、有機物のぬくみを記憶している無機物ととらえた述懐に見えます。

乳歯はもとより人体の一部であったものだし、宝石も多く身につけるものですから人体の一部と感じることにふしぎはありません。ところで真珠は正確には「石」ではなく貝の分泌物であり、真珠母ということばもあるくらいで、人の主観で考えると貝の母の胎内から取りだした子どもみたいなものです。

卵もまた、鶏や鶉の母のもとから持ち去ったもの。幼い子どもをもつ人にはとりわけ、そうした考えがときに〈かなしみ〉となるでしょう。阿古屋という名称も「吾子」に通じています。