すぎされば悪意も秋の陽だまりのなかにちいさく吸われてゆけり

江戸 雪『声を聞きたい』

(2014年、七月堂)

 

2009年から2014年にかけての歌をおさめた編年体の歌集において、この歌は最初の年に属します。したがって東日本大震災の歌を中盤にはさみますが、あまり大きなことはうたわれません。しかし歌集を通じてときおり登場する子どもにとっては大きな変化と成長の5年間だったでしょう。

掲出歌は子どものことであるとは書かれておらず、大人どうしのつきあい、もしくは昔の出来事に対する嘆息とも読めます。ただ、同じ章にある次の歌とあわせて読むと、友だちなり教師なりの悪意に胸を痛める子を気づかうふうにも見えてきます。

 

嘔吐するまでけんかして帰りくる子のジーンズをざぶり洗えり

どのように生きてもいいと子に言えりうとうとと歯を磨くうしろで

 

他人の言動に傷つくことは、けっきょく、大人も子どもも変わりありません。だからこそ、子どものけんかをくだらないことと決めつけず、半分寝ながら歯をみがく姿を横目で見つつ生き方の話をしたりもします。なかば、自分に言い聞かせるように。

あるいは、自分のなかにも他人への悪意は生まれます。誰のものでもあり、誰のものでもない悪意は、それ自体が一個の生きものめいています。生きものであれば寿命があり、いつか弱って、秋のやさしい陽光に吸収されてゆくという図をうたっているようでもあります。

悪意もまた、作者にとっては絆のひとつの形であるのかもしれません。

 

陽だまりにとめどない黄よ落葉はまた逢うための空白に降る