車椅子重たくなりて夢のなかの母はいづこを歩みゐるやら

恒成美代子『秋光記』

(2016年、ながらみ書房)

 

ここでの母は、あとがきによると、再婚相手の母であるとのこと。本書中の内容から、晩年をグループホームで過ごされたことがわかります。

短歌では義母、姑、妣(=亡くなった母)などの漢字を使い分けることが多いなか、この歌集では平明な表記を採用しているところに親近感がうかがわれます。

車椅子が重たくなったのは、眠ってしまったから。幼児を抱いているときと同じ現象で無垢な感じがしますが、むろん母を幼児のような存在と見ることはできません。

 

生きてゐるふうでもなくてひさかたの天のあをさがかなしい九月

朝眠り昼間も眠り今眠り夜の夜中も眠りてゐるや

 

一日の大半をうつらうつらしている姿は、晩年の人には珍しくないとはいえ、快活であった往時を知っていればやはりせつなく映ります。

以前のように歩いている夢をみているのだろうと、作者は想像します。〈~ゐるやら〉という口調に、しょうがないなあと言いたげな苦笑がふくまれていて、うっすらユーモラスでもあります。

こうしたユーモア、ちょっとした軽さには、案外大きな意味があると思います。歌集全体の雰囲気を醸成するものだからです。

 

スプーンを持ちたるままに泣きいだす「また来るけんね、もう泣かんとよ」

 

「久津晃」「江津湖」など九州の歌人名や地名にも目をひかれる歌集ですが、九州らしさはやはり話しことばにもっともあらわれます。この歌は後半の直接話法が読者をも、その場にいたような気持ちにさせます。