五分ほど遅れてをれば駅ごとに日本の車掌は深く深く詫ぶ

齋藤寛『アルゴン』(2015年、六花書林)

 確かに日本の電車では運行が数分遅れただけで、車掌の馬鹿丁寧な「お詫び」の車内放送が駅を発車するごとにある。「駅ごと」にあるのは、その駅から新しく乗車した人のためなのであろうが。乗っている者にはやや煩わしい。

 日本人のこの几帳面さに外国人は驚く。1時間、2時間ならともかく、5分ほどの遅れは実生活にそれほど大きな支障はない。待ち合わせでも5分や10分の遅れは十分に許容範囲内であろう。敢えて「日本の」と言っているのは、外国ではそんなことはないということを表している。

 このことをもって作者は日本人の国民性を揶揄しているとも言えようが、もっと大きく、現代文明そのものを鋭く批判しているようにも思える。時間を厳守するということは効率性の担保である。あらゆる場面における効率性は時間的正確さを前提としている。効率性、生産性最優先が現代文明の特徴なのだ。そして作者はそのことを批判することによって、現代における人間性の回復を呼び掛けているようだ。

 修辞的には「深く」という言葉を重ねて使い、畳みかけることによって、車掌の几帳面さを表しているが、そこには作者の皮肉、というよりも、恐らくは手元のマニュアルに従って放送しているであろう状況に、深い絶望と怒りすらも感じているのかも知れない。また「五分ほど」という設定もなかなかのものである。「十分」でも「二分」でもこの効果はは薄れる。十分に考え抜かれた表現なのだろう。

     苦しみの巷のうへに虹生(あ)れてひとはみな虹だけを見てゐる

     双乳の重さを負はぬ性なれば思惟(しゆい)しばしば浮き立ち易し

     「シンジュクを出ますと次はシブヤです」車掌朗詠する午前九時