透きとほる袋を揉んで買ひしもの老爺はひとつひとつ詰めをり

日置俊次『落ち葉の墓』

(2015年、短歌研究社)

 

かなしいことがあるわけでもないのに、一読、せつない心もちがよぎります。下の句のとつとつとした描写が、買い物慣れしていないようすを思わせるからでしょうか。

上の句も比喩などのレトリックを用いるでもなく描写に徹していますが、おそらくはスーパーマーケットに備え付けの薄いビニール袋を〈透きとほる袋〉と言いかえたことで、あやうさ、おぼつかなさの感触が生じました。

〈揉んで〉という語も、もどかしさを伝えてきます。乾いた指では袋を開けにくいのでしょう。

若い人がさっと袋に詰めて去るかたわらで、ゆっくり作業をする老人の姿が浮かぶとともに、そんな人に注目してしまう作者の心境も、書かれていないけれど思われます。この歌は「病院の隣のスーパーにて」と題された一連のなかにあり、詠み手も不安のなかにいることが暗に示されています。

 

もう幾杯ここできしめんすすりしか母見舞ふたのしみのごとくに

われいつか白髪となり見わたせば無数の白髪がきしめんすする

 

軽食コーナーのあるスーパーで、せっかく来たからきしめんを食べようということらしく、遠方から東海地方に定期的に来ているものと推測できます。

他の歌に〈亡き父〉とありますから、いま母を見舞う身内はおもに自分であるという大人の自覚をもちながら、かつて母の幼い息子であった自分が白髪であるという精神と身体の齟齬、そして〈無数の白髪〉――人は例外なく老いるという認識が、せつなさを呼ぶようです。