わが庭の薔薇垣に朝のひかり差すまさしく日食まへの太陽

木下孝一『霜白き道』(平成28年、現代短歌社)

 薔薇を育てるのは結構手間のかかる難しい仕事である。絶えず選定、施肥、害虫駆除、消毒などに気を配らなければならない。それだけに見事に咲いた時の喜びはひとしおであろう。ましてや作者のように垣にすると一株や二株ではないだろうから、よっぽど薔薇好きの人でななければ勤まらないのではないかと思う。

 掲出歌、「薔薇垣」とだけ言っていて、花の状態は言っていないが、小振りの花が沢山咲いているような印象を受ける。そこへ明るい朝の太陽が差し込んでいる。美しい光景である。しかし、作者はその数分後には金環日食が訪れることを知っている。恐らくテレビや新聞などではその話題で賑わっているのであろう。作者もまた日食を見ようと庭に出てきたのではないだろうか。

 もうすぐこの世界に「異変」が起きる直前のこの世の美しく調和のとれた光景、我々にはその数分後の「異変」を知っているからこそ、現在の眼前の朝日の差す薔薇の垣がこよなく美しく見えるのだ。古代人と違って、現代の我々は、日食が神の怒りや転変地異の予兆でないことは知っている。それでもなお、それは我々の感覚では「異変」と言っていいものであろうし、その「異変」の直前に凛と咲いている薔薇の花、それをいつもと同じ様に明るく照らしている朝の光は神々しくも美しい。この直後、しばしの時間「異変」があって、その後世界はまた通常の光景に回帰してゆく。「異変」の予感は不安ではあるが、我々はその後の元の世界への回帰を確信しているだけに絶望はしない。その少し前の「異変」を予感している美しさなのである。

     日食グラスを眼(まなこ)に宛てていま七時三十四分金環を見る

     かすかにいま雲の過(よぎ)るか日食の金環のひかり須臾弱まりて

     薄雲の霽(は)るるたまゆら日食の金のリングの煌(きれめ)きを増す