吉植庄亮『煙霞集』
(1928年、紅玉堂書店)
松村正直さんの最新評論集『樺太を訪れた歌人たち』(ながらみ書房)から引きました。旅行詠です。
鳴き声というより吠え声に近かったのであろうことが、後半の直喩から生々しく伝わります。生々しいのは、自然音でなく人声に喩えられているから。
知人あるいはふだん巷間で見かける酔漢を連想して親しみを覚えたのかもしれません。
『樺太を訪れた~』の冒頭に「多くの人が『なぜ、樺太?』と不思議そうな顔をする」とあり、現在ロシアのサハリンである樺太と日本との距離感から私も同じ顔になりましたが、北方を訪れた北見志保子・土岐善麿・斎藤茂吉等および樺太に住んだ歌人の足跡をたどることがすなわち戦前戦中史へのひとつのアプローチになることはわかりました。
さいごに著者もサハリンへ出かけます。
そして樺太といえば私はまず北原白秋の紀行文『フレップ・トリップ』のイメージがあるので、「北原白秋・吉植庄亮と海豹島」の章をたのしく読みました。白秋の調子がよすぎるほどの文章、庄亮らとの会話、海豹島の鳥獣の描写は青空文庫でも読めます。
当時の名士たちはこうした観光を通じて自国の領土の拡がりを喜んだのだろうなあと、ちょっとため息まじりに考えます。オットセイといえば、山川登美子の病床での歌
おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな
も思いだします。
庄亮と状況はまるで異なりますが、オットセイはどういうわけか人間と重ねあわせて詠まれることがあるようです。