泉町大工町過ぎ坂道を下りぬ向かい風を浴びつつ

田中拓也『雲鳥』(2011年、ながらみ書房)

 「泉町」、「大工町」、どちらも古い城下町にありそうな町名である。作者が現在居住する水戸市にもどちらもあるようだ。「泉町」、かつては泉が湧いていたのだろうか。ロマンチックな響きがある。「大工町」はもちろん、大工さんが集中して住んでいた区域であろう。そういえば、寺山修司の作品に「大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ」というのがあった。上句の表現には家庭を構え、職業を得て、この町に融け込んでいる作者の姿がある。

 「坂道」はどうしても人生に喩えられてしまう。1971年生れとあるから、今年で45歳、紛れもなく壮年であろう。坂道を下るというには少し早すぎるように思えるが、ある程度自分の人生が見通せてきているのかも知れない。歌集中にこんな作品もあった。「人生はながくみじかき坂道と思えば愉し 今をゆくべし」。「向かい風」も象徴的である。職場、家庭、短歌、それぞれの場で様々なことがあろう。順調な時もあろうが、困難なことも少なくない。それはまさに「向かい風」である。向かい風を浴びつつ、即ち、日常の困難を一つ一つ克服しつつ、我々は生きていく。描写に託して作者は自分の思いを述べたか、或いは逆に、思いがこのような光景を描写せしめたのか。

 このように具体的な状況の描写に託して思いを述べるというのは、短歌の一つの在りかたである。この作品の場合、作者の思いは比較的容易に読み取ることが出来るが、思いが深く巧みに秘められた作品もある。そのような作品から作者の思いを読み取ることは読者として大きな喜びである。ただ、それが行き過ぎて、短歌がクイズや謎解きになってしまってはつまらないとも思う。

      給食のプリンのようにあっけなく我の言葉は底をつきたり

      まわり道ちか道ぬけ道どっちみち歩むほかなき今を生きおり

      金色の稲穂の道を歩みつつ父の墓石を父と見に行く

      人生は