大鍋に湯がゆっくりと沸きたつを見つめておれば一世は過ぎん

、糸川雅子『夏の騎士』(平成20年、角川書店)

 作者は多分自宅の台所で何かを茹でるためにか大鍋で湯を沸かしている。鍋の中の湯が次第に沸き立ってくるのを見詰めていると、その間に一生が過ぎてしまうような気がするという。大鍋に湯を沸かすという状況設定が上手いと思う。小鍋ではあっという間に沸いてしまう。風呂であれば時間がかかりすぎるし、だいいち見つめることが出来ない。

 大き目の鍋で湯を沸かす時間はどれくらいであろうか。鍋の大きさ、その中の水の量、火力、季節等々によっても違うが、おおよそ数分から数十分であろう。一人の人間の人生を思うのに長すぎも短すぎもせず程度の長さの時間である。

 時間の面だけでなく、湯が沸くというイメージも人生を思わせる。常温の状態が生まれたばかりで、成長と共に水温が上り、壮年となって沸騰する。水は沸騰するとあとは蒸発するしかないので、その点では人生の終焉と重ならないようにも思えるが、最近の老人に中は最後まで元気な人も多い。助動詞の「ん(む)」には推量、意志、勧誘、仮想、当然などの意味があるが、ここでは推量又は当然であろうか。

 時々、自分は専業主婦なので、生活の変化が乏しく、歌の素材がないという言い訳めいたことを聞くが、このような作品を読むと、ありふれた日常生活の中にも深い詩性が潜んでいることを知る。その詩性を見出すか否かは、まさに作者次第である。

      「未亡人」と呼ばるる者に成り果てぬ未だ死なざる余白の白さ

      及ばぬと思いて歌集を閉ずるときつるべおとしに秋の日暮れぬ

      セルロイドの石鹸箱に石鹸がしろくおかれて春がはじまる