角田 純『鴨背ノ沖ノ石』
(2013年、不識書院)
なにもなき、と言いつついろいろ情報の詰まった一首です。
接続詞から入る初句は、その前に存在していた時間のことも暗に語ります。〈虚〉という表記は虚空、目に見えている空だけでなくその向こうにつづく宇宙も示しています。いまここ、だけではない時空間のひろがりを感じます。
〈そぞろに〉からは意識が動いて日常レベルに戻り、気象が(うたい手の気分も)変化を見せます。〈なにもなき日〉は、いつもと同じであるというということ。
じっさいには何もないということはなく、家があれば人がいて生活があるはずですが、つめたい時雨の景色にそれらが埋もれてしまい、家群(やむら)だけが残る印象があります。
赤煉瓦倉庫傍[わき]には寂びれたる荷揚げ場ありて旧東洋紡績跡地
夜の闇のみぎはの音を聴きをればなまなまとせり視えざるものは
作者は愛媛に生まれ、海辺の風景を多く歌のモチーフとしていますが、作歌の手つきにはちがいが見られます。
上の2首めは空想的な歌ではないものの、〈視えざるもの〉を言語化しようとしている点が1首めと異なり、「リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない」(柄谷行人『日本近代文学の起源』)という一節を思わせます。
夜の底より顕ちあらはれし想念のありて齝[にれか]む醒めたる時を
このように内省的な歌もあり、作者のなかで風景と心象は相反するものではなく、地続きであることがわかります。