はしがきもあとがきも無き一冊を統[す]べて表紙の文字の銀箔

阪森郁代『歳月の気化』

(2016年、角川文化振興財団)

 

本の種類が特定されていませんが、歌集と考えてみます。

現在の歌集では、序文はあまり入れず、あとがきに収録歌の数と制作時期、内容の背景である実体験などを記し、謝辞でむすぶパターンが多く見られます。

詩集ではそのパターンはなく(初出一覧が資料的に示されるていど)、じっさい詩人から「歌集ってあとがき、なんかいっぱい書いてあるよね」とふしぎそうに言われたことがあります。

「なんか」はおもにデータの記述に向けられた副詞?らしく、つまり歌人にとって自分がいつどのくらい歌をつくり何番目の歌集としてまとめたかは大事なデータ、というか人生の構成要素であって、あとがきを書かないことは人生を隠すこと、ある種の不誠実や怠慢とみなす発言も聞いたことがあります。

詩人と歌人、一般化はできないものの、自著へのスタンスの違いにとまどいます。でも〈はしがきもあとがきも無き〉例外的な歌集も、もちろんありえます。

それは著者の不誠実や怠慢ではなく、歌集観ひいては書物観のため。この歌にはそんな主張があります。記述が「ある」ことではなく「ない」ことにより示される信念があるということです。

〈表紙の文字〉すなわち書名が「全て」という発想が〈統べて〉という動詞を引き出したかもしれません。

 

親しむといふほどでなき一冊の諾ひやすし気が向けば読む

 

もっと気軽な、書物についてのこんな歌もあり、季節の事物にも取材しつつ箴言的なムードの濃い歌集です。