あかときに目覚めし人は隣りゐる老女の貌を見るにあらずや

稲葉京子『忘れずあらむ』

(2011年、不識書院)

 

先月、83歳で逝去された稲葉さんの生前最後の歌集も、これまでどおり、劇的な事件があるわけではありませんが、みずからの病をいたわりつつ周囲の人たちとのかかわりを繊細にうたう作風です。

この歌は

 

かすかなる礼節ありてこの人と四十年を越えて暮らすも

 

につづくものであるため、〈目覚めし人〉は夫、〈老女〉は自身のことと読めます。

目を覚ました夫が隣で眠る妻を見ることはないだろうかというだけの述懐なのに、どこかおごそかな気持ちになるのはなぜでしょう。

 

ほとけは常にいませども/うつつならぬぞあはれなる/人のおとせぬあかつきに/ほのかに夢にみえたまふ

 

〈あかとき(暁)〉から『梁塵秘抄』のこの代表歌が連想され、ほのかに宗教的な心性を感じてしまうせいかもしれません。

〈目覚めし人〉を見る第三の目、霊的な存在への感受性があるということです。

しかし超自然的というほどのことはなく、結句の「(あらず)や」「(暮らす)も」という助詞のたしかな使い方に見られる古典性のほうが、作者の技巧そして個性としてきわだっているようです。

 

七十には七十の恋があるべしと 思ふ心にほのぼのとゐる

ふと肩に手を置きしのち去りゆける あれは気まぐれな神の手ならん

 

「(ある)べし」「(なら)ん」といった助動詞の使い方も、同じく。〈七十の恋〉は回想もふくむ、憧憬の心の不変を述べているのではないでしょうか。

かつて思慕した人の手が、いま、神の手としても感じられています。