原田彩加『黄色いボート』
(2016年、書肆侃侃房)
上の句の口調からすると語り手は眠ってはいないわけですが、短い時間の経過をあらわす1字空白を経て、下の句ではすでに夢に半分入っているふうでもあります。
廊下を歩いているのだとしても、花の存在を視覚でとらえていないため、あたりがとても暗そうな気がするからです。
と、初読時はとらえていたのですが(2014年の現代歌人協会主催「全国短歌大会」への応募作でした)、歌集のなかで読むと、自分ではなくこれから眠ろうとする人についての祈りかと思えてきました。
経糸のほつほつと切れ祖母はもうわたしの歳を覚えていない
花火見てふわふわ帰る暗闇におしろい花の香りがしたよ
黒揚羽ひらりひらりと見て廻る新しい棟 祖母の眠る部屋
こんな歌が前にあります。現在の〈百合の香り〉がかつて嗅いだ〈おしろい花の香り〉を引きだして、施設で就寝する前の祖母を見舞った語り手自身の意識が少女にかえっています。
〈黒揚羽〉も自画像でしょう。
〈すべてを忘れますように〉というのは、社会生活の煩わしさを忘れて心安らかに生きてほしいという願いです。語り手自身も祖母に忘れられてかまわないということでしょうか。おそらく、記憶をなくしても絆は失われないという確信があります。
労働や人間関係の鬱屈をうたうなか、読みすすめるうち動植物等に託した比喩・暗示表現がふえてくるこの歌集のなかで、〈百合の香り〉は相対的な年齢感覚を打ち消す魔法のようにはたらいています。