光森裕樹


指さしてケーキ買ひゐる夫を見つ通り雨降る駅のおもてに

栗木京子『水惑星』(雁書館:1984年)

*表記は『現代短歌全集 第17巻』(筑摩書房:2002年)に拠る


(☜1月4日(水)「おなじ街という感覚 (1)」より続く)
 

◆ おなじ街という感覚 (2)

 

突然の雨が降る駅の大通りに夫を見かけた。どうやら夫はケーキを買おうとしているようだ。なにやら指をさしてケーキを選んでいる――

 

今度は妻からの視点で、夫を街に見つける歌だ。おそらくは仕事帰りだろうか、家族のためにケーキを買おうとする夫の姿を雨の向こうに見る。「指さして」という表現から浮かぶのは、カタカナばかりの洒落た名前を口にしてケーキを指定するのではなく、例えば「これと、この赤いのを…」とぎこちなく指で指し示す、なんだか可愛らしい映像だ。

 

「通り雨降る」という表現は、よくよく考えてみると面白い。降り終わってみないと「通り雨」だったのかは分からないからだ。ここは、あらかじめ天気予報で通り雨が降ることを知っていた、と解釈するよりも「夫を見つ」という短い時間の先にふたたび晴れ間がやってきたと解釈したほうが歌が広がるだろう。

 

果たして妻はすぐさま夫を追いかけたのか、駅前の雑踏にまぎれていったのか。<その先の話>は人によって異なるかもしれないが、私は後者だと思っている。それこそが、家族へのちょっとしたプレゼントを買う人への優しさだから、ではない。夫が、シクラメンを買う妻を見つけた時に声をかけなかったからである。

 

シクラメン選りいる妻をデパートに見て年の瀬の街にまぎるる  上野久雄
指さしてケーキ買ひゐる夫を見つ通り雨降る駅のおもてに  栗木京子

 

この夫婦のように美しい対をなす二首の問題は、この歌の作者である上野久雄と栗木京子とが夫婦でないことである。それどころか、両者の世代も歌が詠まれたであろう土地もまったく違う、他人同士である。この如何ともしがたい事実に、私はいつも苦しむ。

 

同意される方が一人でもおられることを願うばかりだが、すべての歌人のすべての歌は<おなじ街>の出来事のように記憶している。歌集を読んでおのずと覚えてしまうような好きな歌は、時代や作者名ごとにきちんとラベリングされて小箱に収められるのではなく、頭のなかの一つの街で起こる群像劇としていつまでも生きていく。時にはその空想が私を飛び出て、上野久雄と栗木京子が夫婦だったら完璧だったのに、という嘆きをもたらす。

 

私の嘆きはともかく、「歌をどう読んだか」を語り合うことも大切だが、案外私たちは「歌をどう楽しんでいるか」を共有してこなかったように思うのである。

 

さて、シクラメンを選ぶ妻にケーキを指さす夫。彼らが住む<おなじ街>の住人をもう一人だけ紹介したい。その住人もまた、誰かが何かを買うのを目撃するのである――

 

(☞次回、1月9日(月)「おなじ街という感覚 (3)」へと続く)