光森裕樹


注文をするとき笑みているわれを肉屋の鏡のなかに見出でつ

阿木津英『紫木蓮まで・風舌』(短歌研究社:1980年)

*表記は『現代短歌全集 第17巻』(筑摩書房:2002年)に拠る


(☜1月6日(金)「おなじ街という感覚 (2)」より続く)
 

◆ おなじ街という感覚 (3)

 

精肉店で肉を注文しているときに、ふと店内に鏡があることに気付いた。その鏡の中に、にんまりとした笑顔をたたえる私自身を見つけてしまった――

 

今回紹介した歌は、自分自身が物を選ぶ姿を見るというものだ。一首に不穏な雰囲気をもたらすのはやはり「肉屋」の一語だろう。「花屋」や「ケーキ屋」において笑顔で注文をするのとは大きく意味が異なる。他の生き物を食べる存在としての人間の本能と、表情という人間の文化的コミュニケーション手段とが、無意識のうちに手を組み、無意識の笑顔として現れる。

 

自分自身のことながら、決して見てはならない物を見てしまったような怖さが読後感として残る。あらためて考えてみると、肉屋に鏡がおかれていることには深い意味さえありそうで、背筋がきゅんと冷える。

 

上野久雄、栗木京子、阿木津英の歌に共通するのは、人が「選ぶ/注文する」ということである。思えばお店で何かを選ぶときには、目の前の商品のことしか頭のなかにないわけで、傍から見ればもっとも無防備な状態だと言える。ある意味では、その人物らしさが剥き出しになっている瞬間であろう。花とケーキと肉。選ばれるそれぞれが、選ぶそれぞれの喩になっていると考えると面白い。

 

私の頭の中の<おなじ街>に、ある夫婦は互いを見つけ、ある者は自分自身を見つける。三人がすれ違うこともあれば、また新たに記憶した歌をきっかけに出会うこともあるだろう。花の置かれたテーブルに、厚めの肉料理と、食後のケーキ。それを囲う三人――

 

彼らのその後を知りたくて、私はあまたの歌集を開いては歌を拾い続けているのかもしれない。

 

(〆「おなじ街という感覚」おわり)