おそらくは電子メールで来るだろう二〇一〇年春の赤紙

加藤治郎『環状線のモンスター』(角川書店:2006年)


(☜1月11日(水)「伊舎堂仁は二度あらわれる (1)」より続く)

 

◆ 伊舎堂仁は二度あらわれる (2)

 

あした征くどこであってもニッポンの蒼いブリキの兵隊として
くるしみて雲はふくらむ戦場の画像は肉を映さざりけり
人間の頭の爆ぜる鈍き音順に聞こえて静かなりけり

 

このような歌が目を惹く、連作「春の赤紙」の最後の一首である。やはり、塚本邦雄の「春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令狀」が下敷きとなっているだろう。

 

枕頭に赤紙が〈赤紙のまま〉で届いた塚本の歌とは異なり、掲出歌では電子メールで届く。およそ二十年の年月を経て、私たちの生活における情報伝達方法が大きく変わったことが示されている。「電子メール」という現代的な手段に始まる一首は、「二〇一〇年春」という当時の視点での未来を示しつつ、締め括りに「赤紙」という過去のもの(と信じるもの)を喚び出す。その異物感がそのまま読後感として残る。

 

この歌が読まれた頃の電子メール事情を、おぼろげな記憶を頼りに思い出す。プロバイダが提供する個人情報と強く紐付いたメールアドレスもあれば、適当なサイトで適当に取得できるフリーメールアドレスもあった。パソコン用のメールアドレスと、携帯電話用のアドレスとの区別や使い分けは今現在よりももっと意識する必要があり、どちらにも迷惑メールがたくさん届いた。「添付ファイルは開くな」「HTMLメールは怪しい」ということも、メールサーバー側でのフィルタリング機能が非常に強力な今となってはあまり言われなくなったが、当時は身をもって失敗しながら得られる経験則に近かったように思う。

 

ゼロ年代前半から2010年という未来を詠んだ歌だが、当時の電子メール事情を多分に反映させて一首を読んでも良いだろう。もし、赤紙が電子メールで届けば、それはHTMLメールであり、背景色が赤く指定されたものになるだろうか。赤色であることが律儀に踏襲されている様は滑稽であり、見た目の怖さを通り越して即座に迷惑メールと思われるに違いない。おそらくは、なりすましを防ぐためにデジタル署名が付けられているだろう。署名の付いたメールを開こうとすると、多くのメールソフトでは「このメッセージは差出人によってデジタル署名されています。」というようなアラートが表示されてから本文を確認するような仕様になっていたと記憶する。見慣れない画面に多くの人は戸惑い、そのままにするかもしれない。

 

ある者はそれを信じ、ある者は迷惑メールと決めつける。ある者は国がメールアドレスと個人の紐付けを完全に把握しているのかと恐れ、ある者はそれは絶対に無理だと考える。ある者はメールアドレスを変え、ある者は本文内容を変えて誰かに転送し、それはやがてインターネット・ミームとして面白おかしく改編されながら広がっていく。そしてある者は、メールで指定された日時に、指定された場所に集合する。

 

どの「ある者」であるかによって、一首の感想は異なるかもしれない。ただ、短歌を読むとき、例えば「電子メール」というような〈現代的な物〉が出てくると、あたかもそれが不変な物として捉えてしまうことがある。「電子メール」ひとつとっても、ほんの数年でその〈感触〉は変わってしまう。そのことは心に留めておきたい。

 

下の句の「二〇一〇年春の赤紙」は、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』、およびその続編の『2010年宇宙の旅』を踏まえているのだろうか。2001年を迎えたとき、私たちは惑星間有人探査船も人工知能HALも持たず、骨のような携帯電話をただ握りしめていた。そして、そこにはどこからともなくたくさんの迷惑メールが届いた。果たして、サイエンス・フィクションとして描かれてきた時代を実際に生きる私たちの想像は、フィクションよりもずっと現実味を持つのだろうか。

 

2010年も遠く過ぎた。

 

加藤治郎の一首がフィクションだったのか、ノンフィクションだったのかは分からない。〈二〇一〇年春の迷惑メールフォルダ〉を、私は確認しなかったのだから。

 

(☞次回、1月16日(月)「伊舎堂仁は二度あらわれる (3)」へと続く)