赤紙をもらった人だけが見れるめちゃくちゃおもしろい踊りだよ

伊舎堂仁『トントングラム』(書肆侃侃房:2014年)


(☜1月13日(金)「伊舎堂仁は二度あらわれる (2)」より続く)

 

◆ 伊舎堂仁は二度あらわれる (3)

 

伊舎堂仁は1988年生まれ。大雑把に言えば、塚本邦雄の「春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令狀」が詠まれた頃に誕生し、加藤治郎の「おそらくは電子メールで来るだろう二〇一〇年春の赤紙」が読まれた頃に高校を卒業するような世代である。

 

掲出歌は「再びよろしくおねがいいたします、東京/蝶はUFO」という連作に収録されているが、一体どのような場面なのか、一首単位でも連作単位でも特定することは難しい。あれこれと考えた結果、二つの場面を想定した。

 

<1>

例えば現代の若者や主体が、友人の前で「”赤紙をもらった人だけが見れる踊り”をやります!」などとふざけて、ありもしない踊りをおどって笑いをとる場面。踊りの滑稽さと、「赤紙をもらった人だけが〜」という場面設定のひねり具合、そして直観的に感じられる不謹慎さとをかけ合わせて、周囲からの反応を最大限に引き出そうとする様を描いた歌、と言えばよいだろうか。

 

おもしろい人と思われたいおもしろいと思われたい人じゃなく  「11月」

 

という歌に代表されるような、周囲の目やおもしろさへの期待を過剰に意識した歌に持ち味がある伊舎堂仁らしい歌と言えるかもしれない。

 

<2>

なんだか怪しげな人物が現れて「赤紙をもらったらこんなおもしろい踊りが見られるよ(だから赤紙を喜んでもらってね)」とその踊りのさわりだけを踊ってみせる場面。どうにも胡散臭い人物だが、赤紙が問答無用に届くものではなくあたかも「もらえる/もらえない」という自由意思を挟むことができるように描かれている点に、一周回った現実性を感じさせる。そんなものが見られるならちょっくら…と言ってしまいかねないほど、「赤紙」と向き合う天秤皿に載せられたものは軽い。怪しげな人物を〈怪しげ〉だと感じる自分の理性にはブレーキがある。しかし、あちらではなくこちらのほうが〈正常〉という保証はどこにもない。

 

自転車で小学校に来てる子としゃべる時ってなんかやだった  「12」
おじさんがなんか焼けよと保安検査場でくれる2個目のライター  「「運動場ができるまでの体育はあの公園でします」」

 

という歌に表れているように、伊舎堂の歌において他者は多く自分の仲間と呼ぶには違和のある存在や、どうにも理解ができない不気味な存在として描かれる。その文脈を引き継ぐのであればこちらの読みになるだろうか。

 

もちろん、他の読みもあるだろう。

 

思うのは、この歌のように、一読して〈なんだか一線を越えているんじゃないか〉と感じさせる歌に出会ったとき、私自身のなかに躍起になってその歌を理解しようとする力が働く。不謹慎であればその不謹慎さを分析・分類する、あるいは不謹慎さを装うことで反面的に正しいことを言おうとしているのだと納得しようとする。歌を組み伏せることで、書き手よりも読み手の方に余裕があることを感じたくなる。そんな自分が嫌になる。

 

読むという行為は、等しく読まれるという行為に他ならない――

 

そのことを確認しつつ、伊舎堂仁の歌をもう一首引きたい。

 

(☞次回、1月18日(水)「伊舎堂仁は二度あらわれる (4)」へと続く)