光森裕樹


つま先に灯を点すような恋だった 靴下を履くことを覚えた

嶋田さくらこ『やさしいぴあの』(書肆侃侃房:2013年)


(☜1月25日(水)「靴下はなんのために (3)」より続く)

 

◆ 靴下はなんのために (4)

 

「雪とチョコレート」という一連から引いた。その題から、季節が冬であることが分かる。過ぎ去りゆく恋を振り返ると、それは「つま先に灯を点すような」ものだったという。
 

やさしい言葉運びにすっと読んでしまうが、なかなかに深い比喩だと思う。例えば、「心に火が付く」という譬えならば物事は分かりやすい。よくある恋のよくある描写だ。しかし、一首においては、人体において脳や心臓(そのどちらかに心がある、はず)から最も遠い場所であるつま先が選ばれ、しかも、そこが燃えあがるわけでもなく、ぽっと灯りが点るだけである。
 

つま先がじんわりと温かくなる感覚はある。しかし、身を燃やし尽くすようなものではない――そんな、さりげのない、密やかな恋だったのだろう。光るつま先を恥じらうかのように、また、大切に慈しむかのように「靴下を履く」わけである。つまり「靴下」も比喩的な存在であり、「履くことを覚えた」という表現には、こんな恋愛は初めてであり、その経験から小さくも確かな成長があったという意味が込められているわけだ。
 

ストッキングでも、靴でもなく、靴下。この語の選択は非常に大きいように思う。前者では「つま先」を覆うには大きすぎて一首の核心がぶれてしまう。ものにもよるだろうが、つま先の光はそれほどは防げなさそうだ。後者の靴では、光が完全に遮られてしまい、恋を隠そうとする意識ばかりが前面に出てしまう。
 

光るつま先を靴下で覆っても、まだほんのりと光は漏れてくる。たとえ比喩で構成された歌であっても、脳裏に立ち上がるその映像的な美しさは忘れがたい。誰も気付かないかもしれない、でも、誰かが気付くかもしれない。そんな心のゆらめきが伝わってくる。それだけに、恋の終わりとともに光らなくなったつま先は、冬をいっそう冷たいものに感じさせることだろう。
 

同じように、過去を振り返ったり別れを予感させる場面にさりげなくも印象深い譬えが組み合わされた歌を歌集から引いておきたい。
 

行くことのない島の名はうつくしい 忘れられない人の名前も  「トロイメライ」
たんぽぽが綿毛を飛ばすつもりなどなかったようなさよならでした  「Blumenlied 花の歌」
流星のお墓みたいな砂浜で愛されたまま去りたい ごめん  「くしゃみ色」

 

さて、靴下ではなければならない一首の次は、靴下でもストッキングでもいいんじゃないか、という歌を紹介したい。
 

引き続き、スポットライトは靴下に当たったままである。

 

(☞次回、1月30日(月)「靴下はなんのために (5)」へと続く)