靴下は穿くためにある――十二月二十四日の母の口癖

大村陽子『砂がこぼれて』(本阿弥書店:1993年)


(☜2月1日(水)「靴下はなんのために (6)」より続く)

 

◆ 靴下はなんのために (7)

 

「…ですよね。靴下って要は穿くものですよね」と、これまで見てきた歌を吹き飛ばしそうな、取り付く島もない一首である。
 

「十二月二十四日」がクリスマス・イブであることから考えると、子どもの頃に「サンタさんが来て靴下にプレゼントを入れてくれるかな」と言うたびに、「靴下は穿くためにある」と返されてきたのだろう。「口癖」という言葉から想像するに、母にとっては単に洒落の利いたお決まりの返しかた、という程度のものだったのではないだろうか。それでも、子どもごころには夢のない辛い言葉であったと思われる。大人になった今となっても思い出すほどに。
 

歌集の中には、母を憎む想いが溢れるような歌が何首か見受けられる。
 

もう一度胎児となつてわが母の腹を蹴りたし憎しみこめて
母の日のカーネーションを買ひ占めて一本残らず首を折りたし

 

そのような流れのなかで読むとき、
 

母親にならないわれが母親にさせない犬と花火見てゐる

 

という歌の「母親」は単に生物学的な意味での「親」という存在だけではなく、自身の母のような存在になることへの忌避をも強く感じさせる。その一方で、私と避妊手術をした犬と関係は、いわば母娘の関係との相似であるとも見なせる。つまり、私が「母親にならない」のは母に原因があるのでは、という思いも暗黙的に含む奥深い一首となっている。
 

わたし以外みんな不幸になればいい 汚物まみれの父の猿股
男からブタクサなみに嫌はるることの快感 タバスコを降る

 

父の介護に追われる中で、呪うかのように他者の不幸を願う。「わたし以外」には当然、両親を含んでいるのであろう。異性からはアレルギーを引き起こすブタクサのように嫌われる。それを「快感」と笑い飛ばす余裕は頼もしくも、そのタバスコは無意識のうちに掛け過ぎてしまっているんじゃないかと、読みながら心配してしまう。
 

枕木の数ほどの日を生きてきて愛する人に出会はぬ不思議

 

そんな境遇にあって、この一首の透き通った美しさにはこころ打たれる。どこまでも続くレールの枕木にこれまで生きてきた日々を重ね、なぜ「愛する人」に逢うことがないのかと素朴に思う。
 

例えば電車の最後尾の車両に乗っていて、流れ去っていくレールを実際に見ていたのかもしれないが、私はどこか夢の中のような静かな世界で、廃線のうえを歩いて行くような映像を思い浮かべた。枕木を一歩一歩踏みしめていく足には、清潔でぴったりとした靴下が見える。
 

それは、誰かにとっては「穿くため」ものものであり、また他の誰かにおいては、気になる人と出会ったときに思わず脱いでしまうためのものなのだ。
 

(〆「靴下はなんのために」おわり)