マンションより月夜に箱を運び出す男に淡き尻尾がありぬ

千々和久幸『水の駅』(2011年・短歌新聞社)

 

マンション、月夜、箱、男ときて、尻尾。現実にそって考えれば、路上に映る影が尻尾に見えたのかもしれないが、この見立てはきわめて意味性が強く、「尻尾」の隠喩で1首を屹立せしめようとしているように読める。

 

「尻尾」は、男の無自覚に引きずっている自我、あるいは現代都市にある人間の捨てきれない獣性など、いろいろに考えられる。わたしは、ちょっと、ジョルジュ・デ・キリコの絵を思い出した。マンション・月夜・箱という概念をたたみかけ、抽象性高く思念を述べているところに連想をうながされたのである。

 

『水の駅』にはもう一首、次のような尻尾の歌がある。

 

しだり尾のながながし夜を飲み明かし尻尾を垂れて朝風呂を浴ぶ

 

一読すると〈あしびきのやまどりの尾の垂り尾のながながし夜をひとりかもねむ〉への戯れ歌のようにも見えるが、そのような振りをしながら、下句に、ある種の真実味を含ませる。飲み明かした翌朝の、後悔と満足と脱力がまじりあった茫然とした思いの戯画化である。秋の夜長の独り寝にくらべると、二重三重に意識の屈折があり、その屈折が「尻尾」を垂らしている感じだ。

 

「尻尾」が何であるか断定はできないが、再読しているうちに、「男」が生物でいることの証のように思えてきた。前衛短歌運動の影響が濃い作風である。千々和は、短歌と同時に現代詩を書いている。