午後の陽は卓の向かうに移りきて人の不在をかがやかせたり

雨宮雅子『水の花』(2012年・角川書店)

 

現在、伴侶を亡くしたのち、余生を一人で過ごすと決めている人は、とても多いらしい。この歌は、伴侶をなくしたあとの無人空間を歌っている。一人午後のテーブルに向っている。昼食をすませたのちの時間だろうか。静かに寛いでいる感じだ。しばらく坐っていると光が移るにつれて、翳っていたときに曖昧だった家具の一つ一つが鮮明な輪郭をもつ。存在を主張するかのようだ。存在と不在はコインの裏表。存在が鮮明になれば、片方の不在も鮮明に意識される。そこにいるべき人の不在がきわだつ。

 

この歌は「かがやかせたり」が、何ともいいと思う。寂しくて、愛おしくて、たっぷりとして華やか。不在にしてなお、そこに人が輝きを放っているかのようである。こういう歌を読むと、人間は死の後にこそ存在の意味を問われるのではないかと思われてくる。

 

作者は、キリスト者として生きたが、晩年になって棄教した。長い逡巡が続いたという。『水の花』巻末の文章に心境が語られる。宗教は人間を救済するが、反面では束縛することもあるのだろう。

 

曲るホームに沿ひて列車の止まれるは体感のやうにさびしかる景

宗教の必然あらぬにつぽんのやはらかき土わけて草萌ゆ

つつがなくなにごともなく過ぎしの卓にともれる二つ枇杷の実