2月5日の夜のコンビニ 暴力を含めてバランスを取る世界

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark:2012年)


 

◆ 検索窓と生きる (1)

 

2月5日の夜にコンビニに行ったか、その前を通りかかったのだろう。何らかの雑誌を手にとって読んだり、売れ残っている新聞の見出しをちらっと見たりなど、具体的な引き金があったのかは分からないが、とにかく自分の生きる世界というものが、単に素敵なものばかりではなく、暴力的なことも同じ程度に内包していることを思った――
 

歌の意味するところはこんなところだろうか。夜に明るく浮かぶコンビニが無機質な存在であるからこそ、「世界」といった大きな構造へ思いが導かれるのであろう。下の句が「ふくめてバラン/スをとるせかい」と句跨りである点に、どこか本当にバランスを取っているような感じがあって、面白い。
 

前回の大村陽子の歌「靴下は穿くためにある――十二月二十四日の母の口癖」は、「十二月二十四日」がクリスマス・イブであるということを誰もが知っているということが、読みの前提となっていた。掲出歌の「2月5日」という日付はどうだろう。
 

おそらく、特に意味のない日付だと直観する。もう少し詳しく述べれば、例えばその日近辺に大きな事件があることよりも、その日が何でもない日であるほうが、一首が広がりを持つように感じるのだ。それは、短歌を読み続けるなかで誰もが自然と身につける不思議な直観であるように思う。
 

掲出歌に即すると、「2月5日」という日付も「コンビニ」的な無機質な日付であったほうがまとまりがよく、三句目以降の大きな構造への飛翔に自然に推移できる、ということになる。もしこの日付が、誰もが知る大きな事件の日であれば、その事件を直接的なきっかけとして世界の構造に思いを馳せはするものの、その翌日にはそんなことは忘れてしまっていそうだ。「2月5日」が何でもない日であるからこそ、「暴力を含めてバランスを取る世界」という把握に永遠性が与えられるのだ。
 

歌集『日本の中でたのしく暮らす』には、もうひとつ「バランスを取る」歌があった。
 

<カップルたちがバランスを取る>のをぼくはポケットに手を入れて見ていた  「2007年 一月―七月」

 

掲出歌と合わせることで、永井祐が何に敏感に反応するのかが見えてきそうだ。
 
 
 
――と、歌人論にゆるく繫げるかたちで一首評を締めつつも、気がつけば私は本当に「2月5日」に意味がないのかを検索して調べ始めてしまった。たとえばその日が作者の誕生日であったりしないのか。作品の初出(「pool」vol.6)からおそらくは、2007年か2008年の「2月5日」だと思われるが、その近辺のニュースは何だったか……と一時間ほど時間を使った。
 
そうしなければ気が済まない自身の性分には目をつぶりつつ、インターネットの発展が短歌を読む体験をどこかしんどいものにしているのではないか、と小さな声でつぶやいてみる、特に意味のない「2月5日」の夜である。
 
 

(☞次回、6月2日(月)「検索窓と生きる (2)」へと続く)